昭和40年02月14日 朝の御理解
信心の光は「光」ね、ひかりでしょう、こうと読みます。みつと云う字ですね。『光は孝に通ずる。同時に又幸にも通じる』と、今朝からそんな事頂きます。 信心の光それはこうと読む。光は孝にも通ずる。又幸にも通じる。お分かりになるでしょうか信心をさせて頂いて、いわば徳の光とでも申しましょうか、心の中に絶やさない、心の灯りとでも申しましょうか、そう云う光はね、第一親孝行の孝に通じると云う事なんです。幸せの幸、ね、人間の真実の幸せに通うものであると云う事なんです。
「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」と、ね、信心の光を頂かせて頂くと云う事は、そのまま親孝行の孝につながる事であり、幸せの光につながる事。どうでもお互いひとつ信心によって、信心のお徳、光を頂かなければならない。又、光を輝かせなくてはならない。そう思いますですね。そこで、その信心の光と云うか、喜びと云うものがです、信心を頂きますと、必ず頂くのですけれども、それを途中で消してしまうような事をする。それではもったいない。
聖火、今朝、私、『熊本の山田さんが、自転車に乗って、片一方の手に、こう、あのオリンピックの時に、聖火ですね、あれを、こうかかげながら一生懸命こちらへ見えておられるところ』を、お夢頂いとったら、ここへ降りてきとったら、熊本からお参りがあっておる。山田さん、御祈念前に着かれた。やはりその聖火をです、燃やし続けてから椛目に通うて見えておると云う事ですね。同時に、又、椛目にある光を持って帰られると云う意味にもなるでしょうね。
どうでしょうか皆さん、お参りされてから来る時やら例えば、よし暗闇で参って参りましても、帰る時にはここにある一つ燃えておる物、それを心に点火して帰っていけれるお蔭を頂かなければいけません。しかもそれを絶やさず消やさず頂き続けてゆくと云う事が大事なんです、ね。同時に今朝私お夢を頂いた。『それは私が、終戦後引き上げて帰って参りまして、やっぱり、昔の酒店になっておるような風なんです。
私が【 】前にです、北京に居りましたから、北京に行きます前もやはりここで御商売をしておってお得意さんが、私久留米にずいぶん多かった。そのよいお得意さんの中の一人なんです、野口才三と云う方です。荘島に居られました。その人の家に私が又10年振りに一人で帰って来て、「まだ酒店をしよりますから、どうぞよろしゅお願いします」と云うて、その昔のお得意さんの所に行っておる模様なんです。
向こうも、大変懐かしがってですね、「あの、お互い無事で、健康で良かった。そうですか、又帰って酒店されたんですか」と云うて、大変懐かしがって下さるんですけれどもですね、ところが、「大坪さん、あなた気の毒な事に、○○と云う酒店から、酒は頂きよりますたい」10年間と云う空間があった。ね、ところが、そりゃお得意さんですから、昔の事を思い出してから、大変懐かしがっては下さるんだけれども、さぁ、もう私のお得意さんではないと云う事なんです。』私、そんなお夢頂いてから。
ははぁ、信心はここのところだなぁと、熱心にお参りをしておる人達がちょっとやめてしまう人がある。そして又、一ケ月となり、参って来ると「やぁ、お久し振り」と言うてから、懐かしがるけれどもですけれどもね。懐かしがるですけれどももう、そこに、又、それを、お得意さんにする迄には時間がかかると云う事なんです。神様との交流と云うものを、一遍絶っとったらですね、又、懐かしがっては下さる。
お参りをしてくれゃ、はぁ、良かったなぁ、とは、言うては下さるけれども、そこにそりゃ、あんた○○と云う酒店から、こうして酒は頂きよるたい。又、折りがあったら、機会があったら、又時々一本もらおうと云ったような事になったんではありゃせんから、問題は隙間、空間を作ってはならないと云う事です。 信心には。厳密に云うたら、例えば、御祈念なら御祈念の、ここでは1時間なんぼかの御祈念を致しますけれども、その御祈念の間だけでも私、空間を作ってはならない。
神様の前に向こうたら、それこそ、ある時に神様が、『汽車のレ-ルの中で御祈念をしておるような心持ち』とおっしゃる。いつ汽車がゴ-とやって来るやら分からん。眠り半分で起きちょったら、もうそれこそ逃げ遅れる。そのくらいに、真剣なものがなからなければならない。だから、決して御祈念をする時にです、ね、例えば、皆さんの、私の、御祈念に、皆さんがついて下さるのですから、やはり、ちょっと皆さん長すぎるかもしれませんですね。1時間なんぼ、大体、1時間15分ぐらいですもんね。
その間、ずっと後で、その御祈念についとかんにゃならんのですから、額口を手の中に、こう埋めておくと、いつの間にか、うとうとと致します。その間どうですか、汽車がゴ-とやって来たら、ね神様に打ち向こうたら、そのくらいな真剣さがいるんだと云う。こりゃ、厳密に、細かに言うたら、それなんです。御祈念なら御祈念の間にでも空間を作ってはならないと云う事。
一日と云う事に於ても同じ事、一日の間でもいつも何処にでも、絶えず金光様が心の中に祈り続けられておって、私は心の信心の灯と云うものを、燃やし続ける事が出来ると、こう思うんです。昨日13日会でした。大変盛会でございましたが、中であの石井喜代司さんが、先日からあの伊万里に参りましてね、あちらへ行ったら必ず、竹内先生の所へお寄りしてから、まぁ竹内先生の話を聞いてくる訳なんですね。
竹内さん所も必ず、その夕方になると、皆んな集まって見えて、一緒に御祈念があって、そして、あと教話をテ-プで頂かれる訳なんです。で、喜代司さんが見えてると云うと、喜代司さんを中心にして話をしたり、聞かせてもろうたりと云うような模様を、昨日話しておりました。竹内先生が、こう云う事をおっしゃったとゆう事なんです。「石井さん、私の信心は、どうも太陽に弱くて」と云われたち。
私の信心は、太陽に弱いと云う訳なんですよ。ね、もう、一番有難いのは、勤めから帰らして頂いて、皆さんと、こうやって一緒に御祈念をさせて頂いて、もう、心ゆく迄、御祈念させて頂く時にです、初めて、いわば、夜です、ね、夜には強いんだけれども、どうも、昼には弱いって訳なんです。ね、信心の教えを、自分の心の中に頂いておって、勤めの上にでも、いわゆるいわば、職場に於てでも、信心の光を輝かせなければならないと思いながら、ついつい信心の無い者ばっかりの世界に入りますと。
いつの間にか信心の光を消してしまっておると云う事。皆さんでも朝の御祈念を頂いて、まだ太陽が出ていませんからね、有難いなぁとしみじみとですね、さぁ今日もと云ったような意気込みが出来てくるのですけれども、段々と太陽がこう上がって参りますと、明るくなって参りますとです。その太陽にそれこそ霜がたえた太陽の熱で消えるように、いつの間にか、消えてしまうと云ったような事はないでしょうか。
けれども、私、思うんですけれども、それがですね、例えば、夜の御祈念なら夜の御祈念に、心ゆく迄御祈念が出来て、はぁ、神様、今日も又、あそこでも信心ではない事を言うたり、ここでも信心でもない事を致しておりますと、本当に、神様相済まん事でございますとゆうて、心ゆく迄のお詑びが出来る時に、私、光が、又、その、それはいわば、光が消えてはいなかった。
心の灯りと云う物は、やはり燃え続けておったと云う事が言えると思うですね。そして夜になったら又こう、明々と大きくなってくる。ところがなんです、ね、確かに初めの間はそうなんだけれども、それが段々今度は当り前のようになってくる恐れがあるのですよ。ね、いいえ、神様の事はもう忘れちゃおりません。もう、いつも思い続けております。いつも椛目の方を向いて拝みよります、と云う人があります。忘れはせん、けれども、それが段々遠ざかるに従ってです、薄うなる事は又間違いないです。
終いにはやはり、それを見失うような事になります。ね、神様を遠ざかると云うのは、信心の抜け初めとおっしゃる。確かに信心の抜け初めなんですね。ですから、そこのところを、私、頂いていかなければいけない。昨日、ここでも13日会でした。秋永先生が話しておりました。福岡に田中さんと云う人が熱心に、もう、十何年、熱心に、まぁ細々ながら信心が続けられておる。よい信心をされます。
ある事情で御主人と別れて、御主人は東京、自分は福岡で、おかげ頂いておる。御主人の所に、長男の方が高校と大学をあちらで参りまして、最近、就職をして、こちらにかえって来ております。椛目には、もう数で云うならば何回しか参った事はないのですけれども、心の中に、いつも椛目を頂き続けておると云う訳なんです。先日も、大牟田に、田中さんの弟さんが、お医者さんをしておられます。ね、
その方に、その、かずなりさんが話しておるんですよ。それを聞かせて頂いて、本当に有難いなぁ、私のような細々とした信心ではありますけれども、その信心を、もういつの間にか子供が頂いてですね、「おじさん、僕は、もうどんな場合でも、心に光を失わないと、僕にはね、椛目と云う所に、実に、その尊い方がおられる。もう、その方のおっしゃる通りに、例えば、行じ抜いておる。
僕は東京に行く時に頂いた御理解が、今も心の中に生きておる。いざと云う時には僕は、そう云う素晴らしい相談相手を持っておるからおじさん、心配しなさらんでもいいです」と言うて話しておるのを、横で聞かせて頂いてです、田中さんが大変有難かったとこう言ってるんですね。それを先生昨日話しておりました。これは原さんの姉さんのお婿さんなんですけども、夫妻で必ずこの13日にはお参りされます。
非常に淡泊な、あっさりした方なんですけれども、今迄随分あちらこちらの信心をなさった。けれどもこう云う有難い信心は初めて、又こう云う先生を得たと云う事は、もう私の一生涯の幸せ。もうとにかくその、昨日二人お参りされてみて、お婆さん等が言うておられるんです。もう帰りがけにゃ、さぁ、又、来月の13日と言うてから、そのもう来月の13日を指折り数えております。楽しんでおります。
今日は、ちょっと用件がありましてから、会には出られませんけれど、とにかく、お参りさせて頂こうと云うて、今日は午前中に参って見えてから、もう先生、私は、もうここに着いた途端、親先生の顔を見ただけで、はぁ、良かった、お参りして、これで良かったと思う。もう先生、だからこのまま帰ってもいい、本当に、又、もう、御祈念もされません。昨日、又、忙しかったでしょう、ね、それでいて長年の持病である。
その持病であった、その病気もおかげを頂いて、健康なおかげを頂いて、月には一回しかお参りは出けないのだけれどもです、椛目に燃やされるところの憧念心、椛目のお広前に燃やされるところの、一つの憧れの念と云うものがです、絶えず、その人の心の中に燃え続けておる。私、そう云うようなお取次をさせて頂いて、話しを聞かせて頂いたりしてですたい、はぁ、こりゃいよいよ私の信心と云うものがです、光を絶つような事があっちゃならんなぁと云う事です。
いかに、御結界に座っておるからと云うて、お広前におるからと云うてです、それこそ心は、真っ暗闇と云ったような事じゃないのですから、そう云う時に、どうだろう、それは丁度、私は灯台の守りをしておるようなものだと、私は思った。年に何遍しか参って来ない、いや、自分の心のよりどころと云うものを、椛目においておると云うような方達の為にでも、ね、
いつも明々と、この灯台が光を放ち、又は、航路を誤らす事のないような光としてのお蔭を頂いていく為に、これに、燃やし続けておかなければならないな、消やしてはならないなと云う事を痛感致しました。ね、ここにお参りさせて頂く方達が、先生が居られなかったらです、今日は、神様はお留守じゃったと云うような事を言おうがと、お広前を空けてはならんぞと、教祖様は、そう云うふうに教えておられますもんね。
本当に、せっかくお参りしたのに、神様が留守じゃったと云ったような、がっかりした思いで帰すような事があっちゃならんなと云うような事も感じます私どもの心の中に燃え続けるもの、それは信心の灯火であり、光である。それを消す事はならん。そこの努力が信心の精進と云うのである。ね、その精進を劣たって、例えば、そこに空間を作るとするか、私が、お夢の中に頂いたように、ね。
神様が懐かしがっては下さる。久し振りじゃったと言うて、ね、けれども、もう、すでにそこにはそのお得意さんを、私夢の中でなくしておるようにです、ね、お蔭の交流が、もう、そこで、絶たれておらなければならないと。私自身も、本当に有難い意味合いに於ての責任をですね、これは、私の心の中に、光が燃え続けると云う事は、私自身も助かっておると云う事であり、同時に、ここに光を求めて見えられる方達の為に。
どうでも、いよいよこの光が、所謂、聖火と云われるような、清らかな光であり灯りでなからなければならないと云う事。それを皆さんが又頂き続けられて、いよいよそれを尊いものにしておいでられる。その光こそです孝に通じるのであり、又幸にも通じるのであると。ね、親孝行に通じるのであり、私共真実の幸せの幸に通じるのであると。ね、なかなか、一時はカッと燃え上がるような信心をすることがあるかと思うと、それがもう本当にアッと云う間に、線香花火のように消えてしまう人がある。ね、
どうでも一つ、私共の心の中に、竹内先生の、その、まぁ素晴らしい言葉だと思うですね。確かにお互いです、太陽に弱いです。お互いの信心を、ね、明るくなってくるに従って、いわば、信心の世界から遠ざかっておる、いや、信心を頂いておらん者も、頂いておる者も、ケジメがつかんようになってしまうような恐れがある。それでは、まぁいい、竹内先生じゃないけれどもです。
但し、夜の御祈念にはです、もう本当に、有難いいわば取りもどすと云ったようなものがあればまだ良い、けども、人間と云うものは、えてしてです、それが、もう人間じゃけん当り前って云ったような事にどもなったら、そこからです、いわば、隙間風が入ってくる。ね、隙間風だけなら良いけれどもそこから真風が入るとおっしゃる。所謂、お蔭を落とさなきゃならない元と云うものがです、出来る。ね、
初めの間は、立派な口実になる。けれども、本当な事を云うたら、言い訳にならん言い訳をして、神から離れる氏子があると云ったような結果になる。ね、言い訳、神様の前には、言い訳はたたんのである。これも伊万里の、津上さんと云うお婆さんが、一週間に一遍づつ、必ず週間参りがある。その方は、もう日の内に何回でもです、お取次を願われる。その御初穂をと、こうしてあるです。
こう御初穂袋に、こう入れてある、御初穂の表面にです、もう細々と、そん時そん時の事が書いてある。何月何日と書いてある。お婆さんの、あんまりほんとあんまり読めない、もう本当あんまり上手じゃない字だけれども、もう一杯に書いてある。今日は、こう云う事でおかげを頂きましてあありがとうございましたと、こういうことでございますからとお願いしてある。
今日はおかげを落としました、こう云うお粗末御無礼が出来ました、どうぞお詑びして下さいと、その御初穂に一杯書いてある。これなんかは信心の灯を消さない、良い私は方法であると思うですね。本当にですね、もうあののし袋一杯に書いてあるです。どの御初穂にでも。そして一週間目にお参りして見えると云う訳なんですね。とにかくお互いが工夫をしなければいけません。
信心の灯を燃やし続ける為に消さない為に、ね、その光がです孝につながり幸につながることの為に、信心の光をいよいよ心の中に頂かしてもらいしかもそれをです。周囲に輝かしていけれる、山田さんじゃないですけれども、ね、持って見える光に、又、椛目の光を持って帰って、そして、山田さんを中心にするところの、周囲の方達が助かっていかれる事の為に、光を輝かして、云うならおられる訳なのです、ね、そう云う火を、私、聖火、尊い火、尊い光と云うのじゃないだろうかと、私思うですね。
おかげ頂きました。